主ノ宮 光の救いの証(体験)


私は15歳の時に救われました。
それは、私が死を覚悟した年齢でもありました。
それが、逆に生きる(救い)時となったのは、なんとも不思議です。


・私の育った家庭環境
私の家庭環境は最悪な状態でした。
まず、母親はろうあ者(耳が聞こえず、喋れない障害者)です。
それだけでも、ろうあ者自身生きるのが大変です。
自転車や車や人が後ろに来てもわからず、罵声を浴びせ、人々はにらみます。
順番待ってても聞こえないので、飛ばされ、何時間も待ち、終わりのほうになりやっと気付いてもらえます。
電話もかけられません。

周りの家族も、大変さがあります。
常に電話を代わってしなければいけません。
大人の難しい話を、通訳しなければいけません。
私が熱で学校を休むのも、自分で電話しなければいけなくて、
いつも(小学、中学、高校の時)先生におかしく思われました。
夜中12〜6時でもお構いなしに、電話がけっこう来て、FAXだったりします。
当時はまだ、自動受信や無音受信がありません。
小学生の私が、何度も深夜や明け方(昼間もですが)に起こされ、電話出るとピー!ってFAXだったっていうことが、ほとんどです。
うちは特に多かったと思います。
母が障害者の役員をやっていたし、友人が多かったので。
ろうあ者の親は、よくばかにされます。
小学生のクラスメイトが、バカにしてマネをします。
私自身、ろうあ者が普通と思って育ちますので、
口パクで声を発しない、いわゆる「金魚」が当たり前だと思ってました。
それで、自分では喋ってるつもりでも、声が小さく、
クラスメイトから「通訳!通訳!」と、からかわれました。
その辺は、普通のろうあ者のいる家庭かなと思います。
子供は、どんな母親でも、大好きでしょ?
私もろうあ者の母が大好きでした。
確かに大変で、苦労だけど、でも母がとても大好きで、
寝る前はいつも隣で寝て、手を握って寝ていたのを覚えています。

しかし、どの国の人でも悪い人がいるように、
それは障害者でも同じです。
私の母は、良い人ではありませんでした。
「かわいそうだから・・」と たいてい、周囲がガマンします。
母は「かわいそう」をいいことに、すごいワガママです。
私はかなり幼い時から、施設に預けられた事があるそうです。
聞いた話と写真から・・。
このくらいには、すでに両親は うまくいってなかったのでしょう。
父が結婚した理由が「かわいそうだから」だそうで、
この時点で、母のワガママを助長させてたのでしょう。
(男性関係もそうだけど、お金に関してガメツイ!
例えば、最近も1万の靴を買って、どこかに置いてきてしまい、
見つからないから、また買ってきた。
昔、父の給料はいいほうだったけど、そのほとんどを、母は自分のために食いつくし、家は貧乏だった。
私は、おこずかい無しが当たり前。
あと、料理をしない。しても腐ったものを平気で出す。
私は毎日のようにお腹痛くて、床に倒れて痙攣起こして、顔面蒼白でした。
子供だからわかんなかったけど、食中毒だったのかと、大人になって思った。)

気付くと、何度も離婚して別居したり、また一緒に暮らしたり・・でした。
私はまだ幼く、何が起きているのかわかりませんでした。

・心が壊れた時
小学校2年の時でした。
私と姉は鍵っ子(鍵を首からネックレスのようにかける。帰宅時には誰も居ないから)です。
その時は、別居か離婚をしていたのか、父は家にいない時期でした。
ある日の夜、ろうあの見知らぬ男と母が家にいました。
そして、なぜか散歩することになりました。
当時の私と姉にはわからない知らない場所まで来ました。
そこは、ゴミの置いてある、ゴミ捨て場所でした。
「そんなところまで来て、なんだ?」と思ってると、
男性が「あれはなに?」と空を指さしました。
私たち子供だからバカで素直で「なに?なに?」って真剣にその方角を見ました。
すると、母と男性が手を取り合って、走り出しました。
私たちも泣いて追いかけて走ったけど、子供の足で、あと姉が泣き出して止まったのと、
横断歩道が赤だったので、止まりました。
「大丈夫だから!絶対、家に帰れる」と姉を励ましました。
この時から、姉と私の性格が逆転したみたいです。
(それまで私が妹で甘えっ子で、クラスでも中心になってしまうお調子者でした。
姉は、暗くて、人となじめない性格でした。)

知らない道をなんとか歩いていくと、知っている場所に出て、家に帰ることができました。
家には、明かりがついていて、母が一人だけいました。
私たちは、泣いて母を責めました。
「ごめんね」と母は謝りましたが、私は心がガラスのように崩壊していく感覚を止めることができませんでした。
「この人は、私の親じゃない!」と実感させられました。

次の日から、私は別人のようになってしまいました。
学校へ行っても、だれとも話さなくなりました。
話せなかった・・のほうが正解ですが・・。
姉は逆に、話したようで(笑)、友人達が親切にしてくれて
友達ができるようになりました。

そして、いつからか、毎日両親のケンカが始まるようになりました。
両親が帰宅するのは夜中12時くらいなので、そこからです。
私と姉は、先に布団に入って寝てるのですが・・。
姉「お母さん、遅いなぁ。事故にあったりしてないよね?」
私「大丈夫だよ」
よく、こんな会話をしてました。
もう妹の私、完全に励まし役じゃん!逆だよ(笑)今でもだけど。

別々に親が帰ってきて、ケンカが始まります。
(それぞれ夜12時くらいまで飲みに行って帰宅する)
普通のケンカよりすごいのが、母の獣のような叫びです。
あれはかなり近所迷惑・・。夜中2時とか平気で断末魔の叫びですよ?
障害者で聞こえないから、声量に制限がないんです。
普通の人がいくら大声だしても、あれは出せないと思います。
本当に断末魔の叫びです。咆哮ですよ。
毎晩いつもだから勘弁してほしいです。
近所からもちろん苦情きました。子供の私に、ね!
母は聞こえないから!
で、私が答えないと「親も親なら、子も子ね!」と言われ、私は家に入り、泣きました。
もちろん、家にはだれもいません。
小学3,4年あたりの頃ですね。

子供に話してなんになる?
先生や大人に話しても解決できない、母がヒステリー起こすだけだ。
と思ってました。
話す事で、余計つらくなると思いました。
だって、周りの子はそんな問題なくて、幸せそうな子ばかりで、悩んでいるふうな子だれもいない。
幸せをつきつけられて、余計、心が引き裂かれる思いをしたくなくて、
無口になった。言葉がでなかった。
「どうして私だけ?ずるい!」・・と出してしまえば、人生が終わってしまうと思う。
私には本当に後がなかった。必死で生きてた。
きっと、よくなるだろう。どこかに希望があるかもしれない。

でも、状況は変わらず、毎日ケンカばかり。離婚別居も繰りかえし。
小学4年の時だったと思う。夜、母がケンカで家を飛び出した。
私も慌てて追いかけた。そして近くのお店に行った。
母はお酒だったかな?子供だからよくわかんなかったけど、私はオレンジジュースだった。
向かい合わせのテーブルで、客は他にいない。
母が「父と別れようと思う」と切り出した。
私は「いいよ」と表情崩さずに、普通に答えた。いつものことか・・と。
けど、涙が勝手に流れた。
離婚する親の子供は、きっとこうなんだと思う。


離婚は子供に大きな傷を心につくる。
自分の存在を疑いたくなる。
「私はいらない子だよね。」という烙印を押された気持ち。
小学5年あたりから、自殺という知識が入ってくる。
何度か、母のカミソリを眺めることがあった。
手から落としてしまい、事故で少し切れてしまうこともあった。

でも、もう少し待ってみよう、自分が生まれた意味を、
希望が、もしかしたらあるかも知れない。
そう思った。

中学になって、家庭に変化もない・・。私は学校で無口を通した。
だんだん、死へと傾いていく。
両親を殺してやろうか、それで私も死ぬか、
私だけ死んで、みせしめになるか?
そうすれば、姉だけは大事にしてくれるかも・・?
・・と思い巡らす日々・・。

ある時、絶食して死のうかと思った。
1週間、飲まず食わずだった。
母はやってきて、食べなさいと言うが、無視!
でも、姉が涙ながらに「食べて・・・」と言う。
姉は悪くない。
だから、食べて、やめた。

でも、このまま、なにもなく生きるのも、もう意味がなかった。
時を決めた。
15歳で死のう!と。
それまでに、希望が起きなければ、
それ以上生きてても、なにもないという事。

そう決心した。


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