「使徒信条」は、なにを信じているかを短くまとめて表明しているものです。
キリスト教の異端かどうか?は、これに反するかどうかが基準になっています。
教会によって、礼拝の中で唱える教会もあります。

使徒信条

我は 天地の造り主、全能の父なる神を 信ず。

我は そのひとり子、我らの主、イエス・キリストを 信ず。

主は 聖霊によりて宿り、乙女マリヤより 生まれ、

ポンテオ・ピラトのもとに 苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、

陰府にくだり、三日目に 死人のうちより よみがえり、

天にのぼり、全能の父なる神の右に 座したまえり。

かしこより来たりて 生ける者と 死にたる者とを 裁きたまわん。

我は 聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、

罪のゆるし、からだのよみがえり、とこしえの命を 信ず。
アーメン
〜 現代語 〜
私たちは、天地をつくられた 全能の父なる神を、信じます。
私たちは、そのひとり子である、私たちの主イエス・キリストを 信じます。
主は、聖霊によって宿り、乙女マリヤから生まれ、
ポンテオ・ピラトのもとで 苦しみを受け、
十字架で処刑され、死んで葬られ、陰府にくだり、
三日目に 死人のうちから よみがえり、
天に昇り、全能の父なる神の右の座に つきました。
その場所から来られ、生きている者と 死んでいる者を 裁かれます。
私たちは、聖霊を信じます。
聖なる公同の教会、聖徒の交わり、
罪のゆるし、体のよみがえり、永遠の命を 信じます。

※「生きている者と 死んでいる者の裁き」は、
主イエスが再臨され、その時に生きている者も、死んでいる者をも裁かれるということ。

「聖なる公同の教会」は、キリストの体としての教会・・
現在のように閉鎖的ではなく、ひらかれた、公になっていて、
御霊により、同じ本質に向かう地方教会
たちで成すキリストの体、
そして、さらに個別に聖徒たちの交流もあるものだと思います。

前者が団体(グループ)として形成、後者が個人として交流。
団体でも個体でも、クリスチャンが横に繋がり、助けあったりして、聖められた関係を築いて、神様に向かっていく、
そんなイメージです。


主の祈りも載せます。
教会によって、礼拝の中で唱えたり、主の祈りを、歌う教会もあったりします。
聖書の福音書の中で、イエス様が教えた祈りです。
マタイによる福音書6章9〜13節、ルカによる福音書11章2〜4節

 主の祈り

天にまします 我らの父よ。

願わくは 御名を あがめさせたまえ。

御国を 来たらせたまえ。

みこころの天になるごとく、地にも なさせたまえ。

我らの日用の糧を、今日も与えたまえ。

我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、我らの罪をも ゆるしたまえ。

我らを こころみにあわせず、悪より 救いだしたまえ。

国と 力と 栄えとは、限りなく なんじのもの なればなり。

アーメン
〜 現代語 〜
天におられる、私たちのお父さん。
御名が あがめられますように。
御国が 来ますように。
御心が 天に成るように、地にも 成るようにしてください。
私たちの毎日の糧を、今日も 与えてください。
私たちに罪をおかす(負債がある)者を、私たちが ゆるすように、
私たちの罪(負債)も ゆるしてください。
私たちを 誘惑にあわせないで、悪魔から救ってください。
国と力と栄えは、限りなく、主(ヤーウェ)のものです。

※「アーメン」はヘブル語で、そうとおり、そうなりますように、本当に・・という意味です。

「我らをこころみにあわせず、悪より救いいだしたまえ。」の
「試み」は、悪魔から来るものと言われています。
神様が苦しみを与えられる場合は 「試練」と、キリスト教では言います。
神様は誘惑する事はなく、耐えられない試練を与えることはない・・と聖書に書かれているからです。

ここの「悪」というのは「悪い者」を指す言葉で、悪魔を指してるようです。
イエス様が「悪い者」と単数で言う場合は、悪魔を指します。

悪魔から、また悪魔から来るいっさいの悪いものから、救ってください・・と
いう意味があるようです。

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教会の礼拝では、たいてい古語版のほうを唱えます。
現代語は、HP上、私がわかりやすく書いたものです。

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