礼拝とはなんでしょう?


クリスチャンたちの集まりの第一の目的は、
「神を礼拝すること」です。

「神を礼拝する」とは、どんなことでしょう?

★ 礼拝の定義 ★
礼拝は、神さまを崇め、賛美し、捧げ物をしたり、ほめたたえたりして、
神様に、その行為を捧げる時間です。
神様と交流する時間とも言われています。
神様のために捧げる時間を使い、主が神であることを認めたり、認識する時間でもあります。

「神に会う時間」とも言われます。


★ 一般の教会での礼拝 ★
現在の一般の教会では、大まかに「賛美、祈り、聖書メッセージ、献金」が行われます。
例えば、こんな流れ・・・

司会者あいさつ、祈り
20分ほど賛美
牧師のメッセージ1時間〜1時間半
全体で祈りの時間
献金、祈り
短い賛美
奏楽、牧師の祝祷、黙祷

全体で約2時間ほどになります。

★ 礼拝には、いろんな方法がある ★

教会では、便宜上、礼拝がブログラム化されていますが、
礼拝とは、必ずしも、この順番や流れ、方法でしなければいけない・・
という事はないです。

むしろ、表面的で形式的になっては、
心や本質を伴わない、意味を失った礼拝、交わりになってしまい、マズイです。
表面だけのお付き合いって、気まずいです。

例えば、寺などで参拝する、パンパン・・と手を打ち鳴らして拝むのも、「礼拝行為」です。
キリスト教だと、パンパンは意味が無いので、
普通に拍手して、神様をほめたたえる・・という礼拝ができると思います。

個人で礼拝する場合、ダンスを神様に捧げる、
あるいは、ピアノや楽器を奏でて神様に捧げる・・というのも、
立派な礼拝行為です

心を捧げられる事が、大事です。


★ 聖書の時代の礼拝方法 ★

イエス様や使徒たちは、どんな礼拝をしたのでしょう?

最初は、土曜の安息日ごとに、ユダヤ教(旧約聖書信仰)の会堂(シナゴク)で、
ユダヤ教徒として、一緒に礼拝していました。
シナゴクは、10人集まると、会堂として認められます。

ラビ(教師)たちが聖書の話をしたりもしますが、
初めて来る人(ラビ)でも分かち合いのメッセージを頼まれる事があったようです。
イエス様や使徒たちはそれで、頼まれていました。
イエス様は弟子たちがいたり、パウロは風貌がラビのようだと言われていたり、
さらに聖書に精通していたから、ラビとして見られていたと思われます。



★ 理想的な礼拝 ★

礼拝は、「神に会う」もの、「神に距離が近づける」もの、
神との親密度が上がる・・というか、神様のことが少しでも理解できたり、好感を持てたりするものです。
神様に気持ちを向かわせるもの、信仰を励まされる、燃やされるものです。
一致して、神様に心を捧げ、崇拝するのが、共に集まる礼拝の目的ですね。

1コリ
14:26すると、兄弟たちよ。どうしたら よいのか。
あなたがたが一緒に集まる時、各自は さんびを歌い、教をなし、啓示を告げ、異言を語り、それを解くのであるが、
すべては 徳を高めるために すべきである。
 14:27もし 異言を語る者があれば、ふたりか、多くて 三人の者が、順々に語り、そして、ひとりが それを解くべきである。
14:28もし 解く者がいない時には、教会では黙っていて、自分に対し また 神に対して 語っているべきである。

 14:29預言をする者の場合にも、ふたりか 三人かが語り、ほかの者は それを吟味すべきである。
14:30しかし、席にいる他の者が 啓示を受けた場合には、初めの者は 黙るがよい。
 14:31あなたがたは、みんなが学び みんなが勧めを受けるために、ひとりずつ 残らず 預言をすることが できるのだから。
14:32かつ、預言者の霊は 預言者に服従するものである。
14:33神は 無秩序の神ではなく、平和の神である。
 

上記の聖句のような礼拝内容をしてみると良いでしょうね。
使徒時代は、このような礼拝スタイルでしたから。
型にハマって命の無い礼拝になるのは意味がありません。
御霊が自由に生き生きと働かれる礼拝、
どうすれば、生き生きとした信仰、礼拝、心を神に捧げられるか?で、
その時の状況に合わせて、礼拝進行を行ってみてください。

もし、教会が行き詰まっているようであれば、改善してみましょう。

特に問題なく、恵まれて教会生活を送れているならば、改善の必要は無いでしょう。

クリスチャン全員が、本当に生ける神様に近づくことのできる、
素晴らしい礼拝ができるのは、喜ばしいことです。

まさに神の国の到来になります。主を崇めます。



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