礼拝の説教(メッセージ) 

現代教会の礼拝の半分くらいの時間は、説教です。
たいてい、一人の人、牧師が説教します。
(何人かで分かれて、説教するのも、ありですが・・)

ここでは、説教の問題点を考えてみます。
現在の礼拝では、説教が、ほとんどの時間を占めているからです。
説教をメインとする礼拝において、とても大事です。

礼拝が生きるか、死ぬか、良いものとなるか、悪いものとなるか、
この説教にかかる事になります。
信徒が寝てるようでは、新鮮も興味も無く、信仰を失わせています。
飽きられています。

説教をメインとする礼拝をするならば、説教に命が必要です。
そうでないならば、それができないならば、
説教と賛美を逆転したほうが良いでしょう。
または、説教せずに聖書を読む、証しをする時間に当てて、神を崇めたほうが良いです。

ある信徒さんが、説教になると、「心の中で、耳を塞いでいる」と言っていました!

賛美がどれだけ盛り上がって、神の臨在があったとしても、
説教になると神の臨在が消え
てしまうことが、よくあります。

基本的に、説教は、語る者が、すべての語る言葉に集中しなければいけません。
気の抜ける瞬間は、ありません。
賛美もそうでしょう?
すべての言葉を、「本当だ」「そのとおりだ」という口調で、歌うはずです。
説教も、同じ。語る言葉が棒読みではなく、
本物でなければ、命の失われた、退屈な無駄な説教でしょう。
気持ちを込めた説教というのを、やってみてください。

・複数の説教者を準備する

1人が、ずっと毎週(祈祷会などを入れると、週に2、3回)続けて説教するのも、
聞いているほうも飽きるし、説教者も、ネタも尽きます。限界があります!
よく時間稼ぎのような仕草を見かけます。
そういう時は、聖書をみんなで読んだり、祈ったり、間を空けたり、沈黙したり・・が入ります。
説教もまとまりがなく、何が言いたいのか、わかりにくいです。

必ずしも、牧師が説教する必要は無いと思います。体調や限界もありますから。
代理は、常に用意しておきます。
急に、牧師が説教できなくなっても、代わりをする人たちを準備しておきます。
牧師は、「説教を準備する土曜日が憂鬱だ」と、言ってました。
説教の賜物のある人や聖書に詳しい人、御霊に導かれる人がしたほうが良いでしょう。
牧師が一人で、背負う事は無いと思います。
説教を負担に思わずに、もっと専門的な働きをして欲しいです。
牧師だから、信徒のケアとか、まぁ、休むことも必要でしょう。

複数で示された人が語るスタイル、
または対談式とかもできると思います。
(説教者が語って、聞いてる人たちが質問や補足できるとか。)

もっといろんな人が語っても良いと思うし、
それこそ、信徒が交代で、2、3分、いつかの礼拝で話す機会があっても良いかと思う。
賜物者は、それらをまとめて説教の形に持っていくこともできるでしょう。
その時に、ダイレクトに神が語られていること、望まれていることを語れるでしょう。

もし、一人の人がずっと説教するとしたら、教会は命の無いもの、勢いが無くなるでしょう。
ずっと同じものしか食べてなく、偏ることになります。成長できません。
現代教会、または信徒の霊的成長を阻んでいる一因です。


・神を崇める説教

礼拝ですから、
神を崇める、称えます。
あと、神を正しく語ります。
神に向かって語ったり、
聖霊によって語ったり、賛美
の内容がベストです。
主語が「神」なのが説教です。

ユダヤ教だと聖書を朗読します。
詩吟のような旋律に、会衆がアーメン、アーメンと言ったりします。
「聖書が友達」です。

説教で「神を礼拝し」、会衆の心を、神に向かわせます。

神に近づけるように教える」内容を、語ります。
例えば、こんな感じです。
「あなたがたは悔い改めてください。神に立ち返るために」
着地点の主語は「神」です。

「神に向かわせる」「神に近づける」説教です。
説教を聞いたあとは、必ず、神様の御業があって、心触れられ、
新たな決心をしたり、心燃やされたり、心が神に向けられている・・状態である事が望ましいです。

メモを強制的に取らせる説教者がいますが、
メモを取らず、内容が心に刻まれてないと、意味ありません。
そのメモは、いつかきっと捨てるでしょう。
あとになって読んで、「なんだったっけ?」となります。
メモを取らなければいけない内容は、心に入りません。




どんな説教をしてしまっているか?
再確認しましょう。

・日曜学校レベルの説教

日曜学校レベルの説教を、よく聞きます。
それならば、牧師がするまでもなく、信徒が説教すれば、充分です。
そのほうが、牧師が大変でないです。
説教は信徒に任せて、
牧師にしかできない、もっと専門的な奉仕ができます。

・同じ内容
同じようにしか語れない、同じ内容を、グルグルと話すだけの説教。
聞いてる信徒は、真似ができたり、パターンが読めます。
たいたい、タイトルで、内容がわかります。
説教のサイクルがわかってしまう、
牧師のポケット、引き出しの容量(持ちネタ)が、わかってしまう。
違うことを話そうとしても、結局、ネタに戻るパターンです。

・ あらすじを語るだけの説教

「はい!今日は、モーセの話をします。出エジプト記を見てみましょう!
モーセは王女に拾われて・・・「あのことが知れたのだ」と恐れて逃亡し・・
(延々と続く)
モーセはイスラエルの民が不平不満を言う中、神様に従いました!
私たちはこの民のようにならないで、モーセのように、
偉大な神の器となりましょう!
ダビデのように、どんな時にも神様により頼み、
ゴリアテに立ち向かいましょう!」

・英雄気取りな説教

モーセと民とダビデの苦難は、常に命を狙われてるレベルのだいぶ大変なもので、
もっと土台の部分から違います。
何かあるとすぐ、ダビデのゴリアテレベルの話を引き合いに出しますが、
ダビデは、普段から、クマと戦ったりしてました。
ゴリアテとの戦いは、国の勝敗を賭けた、とても大きなものです。
民も、簡単に不平不満を言ったように、よく説教で語られますが、
現地を旅した人は、過酷な旅で、そりゃ不平不満も出るだろうと言ったりします。
それでも、神の選ばれた民、聖別された民として召されるならば、
基準が厳しくなり、苦難の道でも従っていかねばならない、という事でしょう。

私たちの生活で、「ああ、あれが足りないわ」とか、そういう、
ちょっとした話と=イコールでは無いし、
引き合いに出すのも、どうなのか?と思います。
「私は人前に立つのが怖くてね」と、ダビデのゴリアテの話をするなら、
もっとクマの前、羊あたりからの話にしてはどうでしょう。

・間違った事を教える説教

虚栄、欲に走らせたり、
神よりも何かを大事にしたり、従ったりさせるような説教をしたりします。
聖書ではなく、哲学を教えたりします。
時に、哲学は、聖書に反するものです。
そうではなく、神を愛する説教をします。

・強迫・マインドコントロール説教

上下関係や献金、日曜礼拝絶対出席を強いる説教、
しないと「不信仰」、「聖書的でない」とか、
「反抗」、「悪魔にやられた」「反キリストだ」と言って、
自分に逆らわないように、絶対服従させます。
最近は、「この教会を出たら、キリストの花嫁ではない」という脅迫でしょうか。
挙げ句の果てに、追い出した信徒たちを、「悲惨な最後になりました」と、
勝手に、死んだ事にします。説教中の見せしめとして。
「俺に逆らった結果だ。俺=神だから」という事でしょう。
「神の教会(要するに説教者のことや、その方針)に逆らう者は、呪われる」と
平気で講壇から語ります。
初代教会、初期教会なら、そのような事はしなかったし、
そのような人は、奉仕職に選ばれないでしょう。

主なる神様は、真実をご存知です!

キリストの精神、初代教会の方針は、
教会から人々を追い出すのではなく、追いかけるのです!
「困り者をむしろ愛せ」というのは、初期教会の教えです。「使徒教父文書」より。

唯一、異端者だけは、厳しい取り扱いをするのです。
異端とは、「自分が神だ」と言ったり、「キリスト」、「聖霊」だと言ったりする場合です。


・もはや礼拝説教でない説教

「先日、こんな事がありましたよ」と家族や自分の近状、自慢話を礼拝の説教で話す牧師もいます。
おしゃべりや自慢話は、礼拝後にお友達とできます。
牧師の息子さんの小学校の運動会の勝ち負けを、聞きに来たのではありません。

・腹立たしい説教

腹立たしくなるような説教というのがあるんですね!
聞いた時は、びっくりしました。
身だしなみのことについて説教しているのを聞きましたが、
身だしなみも、ちょっと聖書と関係があるのか?と疑問に思ってましたが・・。
ミニスカがダメとかそういう事だろうか?と思っていたら、そうではなく、
「しらが」が、ダメだそうです。
古くさい時代のファッション?というようなのもダメ、
靴も汚れていてもダメ・・、
そう語る牧師も別にセンスがいいわけじゃない。
本人は良いと思っているのかも知れない。
「なんだ?この話は?」と、その嘲り説教に腹わたが煮えるような思いがしました。
こんな説教があるのか!と。
「老人を敬え、白髪は冠」なのが聖書です。
後ろのほうに座っていたので、ふと、前のほうの席を見ると、
献身者で、身なりが貧しい、その話に当てはまってしまう御夫婦が居て、
皆、会衆は笑って聞いてたけれども、その人たちは、ピクリとも動きませんでした。
私も笑えません。
説教も、ここまで、おかしなのがされるようになったのか!と、危機感を覚えました。

・病気になる説教
ある人が、悲しい思いをして、教会の礼拝に行きました。
説教で、悲しむんじゃないというような強い内容のことを語られ、
無理に笑ったら、目の痙攣がずっと止まらなくなってしまったそうです。
心を偽って、押し殺し・・押し込めたストレスでしょうね。

それまでは、一度もそういう事は無かったそうです。

その病気が悪霊だとしたら、説教で、悪霊を入れられた・・という事ですかね。
感情を引き離すという行為は危険で、隙ができて、悪霊が入りやすいです。
傷、ひずみができるからです。
カウンセリングも同様です。
無理に感情をいじってはいけません。
それは霊的メスで、相手の心か、霊(または体にまで)を傷つけます。
聖霊様が働かれる時は、自然に、喜びが湧き上がるのが特徴です。



いろいろ書いてみましたが、ご自分にあったもの、
必要であると思われるものを、主の導きで感じられましたら、
採用してみてください。

まとめると、私の意見は、説教者・・つまり牧師が一人で重荷を背負うのではなく、
ローテーションをしたり、信徒にさせて、賜物発掘することもできるし、
複数の説教者がいるのが、お勧め・・ということです。
説教の質の低下も防げるでしょうし、なにかあった時に、代理もできるでしょう。
説教に苦しんでいる牧師さんって、意外に多かったりします。言わない事がほとんどでしょう。
秘密のアンケートを取ったら、ほとんどの牧師が、手を上げるかも知れません。
私が「説教準備が大変で、土曜が憂鬱」と聞いたのは、素直な牧師さんなんでしょうね。
皆が説教が得意なわけないですから、得意でなければ、牧会のほうに力を入れて、働くこともできるでしょう。

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