教会の権威


聖書で言う「権威」、教会の権威とは、いったい何を示しているか?、わかりますか?

そもそも、「権威」という言葉が何か?、まず確認しましょう。

権威は、資格や力、のことですね。権力とも言います。
ある能力がある、という事です。

たとえば、政治家でも、無能な人が基本的にはなれません。
それなりにできる人、知識のある人でないと・・。
できない人、能力の無い人がなったら、破綻します。
これは、会社の社長でもそうですし、
その責任ある立場に、その能力が無い人が立つと、トラブルや不正、おかしなことが起きます。

家柄や血統なども、権威、権力なります。知名度や名声といったところでしょう。
有名な家柄だと、それだけで敬われます。
それは、その権威ある人が、祖先だったからです。
たいてい、そのノウハウを継承していることがあるので、子孫も能力を発揮できたりします。
継承していれば・・ですが。

教会も、各自の賜物が、役職・・つまり、その人の奉仕の立場となります。

監督の立場は、人格面の条件も必要ですが、
聖書知識に卓越した者、そして、主イエスの力の権威を継承している者がなっていました。
ただ、教会の歴史を見ると、殉教時代が続き、
監督やリーダーたちが、どんどん天に凱旋され、
力ある業や聖書の知識というのが、薄れてしまったようです。

教会史を見ても、中には、無理矢理、監督職を得た者もいたり、
利得を求めたり、名声を求めたりする監督もいたり、
あとは異端になった監督もいたり・・・。
これらを見ていると、
主から権威を授かっていないのに、力(能力)がないのに、
そのなんらかの地位につくことは、できてしまいます。
だから、すべて立てられているリーダーが主からのものか?というと、
違うこともあるという事です。

不正であれば、当然、主は見ておられるから、恐ろしいことです。

主からの証し、その主から与えられた賜物があります。
それは、持っているなら、証明できるものです。

たとえば、12使徒ばかりか、
70人の弟子たちも、癒しが行なえました。
すると、町中の評判となって、町中が救われたという記録があります。

教会の権威、主からの任命は、賜物にかかっています。

記録によると、悪霊の追い出しの賜物を持つ人は、確実に追い出すことができた。
預言の賜物のある人は、未来を語り、的確に語ることができた。
癒しの賜物もそう。
周囲に明らかに認知されます。
それは、神から、その御霊により、権威、任務を授かっているからです。

リーダーは、人の良い人・・だけでは、足らず、
1、聖書に精通している、聖書を愛していること、
2、神も愛し、人も愛している者、
3、聖霊の力の証し(神の御業)が伴う者・・です。

それが、教会内の権威でしょう。

まず、聖書に精通していないと、教えることができない。
異端を正すことも必要です。
それは、遠めで言うのではなく、直接、その人の元に行き、語り合って聖書から教えます。
他人に言っても、関係がないから、ムダです。
教えに精通している必要性は、間違って教えたり、もしくは、自ら異端になる可能性があるからです。
神様を愛していないと、聖霊様も共に働かれずに、御言葉の実証が伴わない、
主イエスの伝道方法ができないからです。
人を愛していないと、伝道も、牧会も、賜物を使うことすら、できないでしょう。

殉教時代に失われていった、初代教会の、主イエスの御旨の教会が、
再び起きるように、主イエス様の御名によって、父なる神様に求めます!


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