信仰生活Q&A

Q「神は愛で、私たちを人間を愛しているから裁かれない」と言われるけど、聖書ではいっぱい裁いてますが・・?
A  神は愛(アガペー神の愛)ですが、裁き主でもあります。善悪の基準をしっかりさせる・・というのは、愛の範疇なのでしょう。神だけに裁くとなるとスケールが大きいですが・・・。
 質問の文脈では、やがて世を裁くためにイエス・キリストは再臨されます。救い主を受け入れて悔い改め、それにふさわしい義の実がなっている「赦された」人々を、神は赦したから裁かないよ、という意味で、「裁かない」というのはあります。つまり、キリスト教の「救い」のことです。
 今は「愛の時代」と言われていて、神へ立ち返り、神が送られた救い主イエス様が身代わりに罰を受けてくださり、悔い改めて、神を心に受け入れ住まわせて、ふさわしく生きるならば、「裁かれません」。それを指して、「神は裁かない」と言うクリスチャンは多いです。
Q,神は愛なのですか?そうは思えません。
A,「愛」はさまざまです。例えば、恋愛においても、「見守っているのが愛」・・と言う人もいれば、「ぶつかってこそ愛!」という人もいます。人それぞれに愛の定義が違います。「神は愛ではない」というのは、その人の愛の定義ではない・・ということでしょう。ただ、聖書では「アガペ・・神の愛」なので、神が愛だと思っているのが、アガペ神の愛になります。
Q教会に来ないと、悪い事が起こると言われましたが、本当ですか?
A「教会=神」ではありません。聖書の原語で教会と訳されている言葉は「エクレシヤ」で「呼び出された者たち、召された者たち」、つまり、人のことで、クリスチャンたちのことです。建物ではありません。教会に縛り付けるような状態であれば、カルト化が起きている可能性があります。
 悪い事は基本的に誰でも起きます。教会に行っても行かなくても起きるでしょう。聖書でも義人と言われるヨブでさえ、大変な目にあいました。聖書を読むと、災いに遭う基準に、義人かどうか?は関係ないです。カインの弟アベルでさえ、いわれのない殺人に遭ってしまいました。
 特に神様は「愛する者を懲らしめる」と聖書に書いてありますので、良いことばかりではないようです。
 聖書で言うと、創世記のアダムによって地が呪われた時から、人には苦難があります。聖書は、人々が助け合うように語っており、助け合わなければ、地上で生きるという事は大変です。
 Q悪い事がどんどん起きます。
A悪い事が起きるのが問題ではなく、どう対処するかが問題です。悪い事は誰でも必ずあります。
 忍耐・胆力が鍛えられます。どう乗り切るか?知恵をもって、対処できる場合、対処してみてください。
問題が難しい場合、グッド・アイディアの答えが来るまで、祈って、可能であれば、いろんな所に相談したほうがいいです。
なにも助けがなく、我慢する時期が続くかもしれません。でも危険ならば、すみやかに経験者や、多くの頭の良い人に相談して助けてもらいましょう。
Q、奉仕を勝手に決められて、やらされるのですが・・。
A、はっきり断ってみましょう。本人の意思に反して無理にさせようとするなら、支配傾向の強い教会で、カルトの可能性があります。
そのような場所にいても、理解されず、「あなたの信仰が弱いからだ」とわけのわからない言葉で、裁かれるでしょう。、
話を聞いてもらえない教会ならば、しっかりと受け入れてくれる教会へ移ったほうが良いです。
 Q,転会したいです。
A,所属教会の牧師に言いましょう。直接言うのに抵抗があるなら、兄弟姉妹またはリーダーに頼んで、まずはその旨を伝えてもらってみてください。
中には、なかなか許可をくれない牧師もいます。平行線であれば、とりあえず教会を変える旨を伝えて、許可を取らずに去りましょう。あまりにしつこくて関わらないほうが良い場合は、フェードアウトして、黙って去るしかないです。日本は宗教の自由がありますから、束縛されません。
Q,「自分達は神の選民」と思い上がって世界を侵略したのがキリスト教徒の過ちではありませんか
A、
キリスト教の名を冠して行われたイエス様の言葉に反する行為は、キリスト教ではないです。イエス様の救いは、武力によるものではありません。

政治的利用でクリーンな名前や象徴を使いたがって、民意を射止める手法はよくあることです。現代の宣伝でも良いイメージのアイドルを使ったりします。
ただ利用しただけで、信仰面で本当に信じていたのか?と、疑問に思います。

世界侵略や戦争がキリスト教であれば、教会でどんどん侵略や虐殺されてないとおかしいです。
それが本当にイエス様の言葉で、その行動をされたのならば、キリスト教は、新約聖書にそれらを追加せねばいけないはずです。
「いつ、どこで、イエス様のために、どこの地を侵略しました。」と。
しかし、そうされないのは、主イエスの告げた行為ではなく、その時代の王たちやある人たちの利得だからです。
その国、その人たちの記録・歴史には、「どこどこを侵略した」と書かれるかも知れませんが、聖書には書かれません。
キリスト教という、当時の聞こえの良いイメージを利用されただけで、キリスト教自体には、侵略の教えは無く、むしろ逆の、「一番低い者となれ」「あげなさい」という教えです。
Q,聖書を読だけでクリスチャンは、神にチヤホヤされる選民なのですか?
A,聖書を得たり、読んだだけでは、選民にはなれません。逆に聖書を持っていないクリスチャンもいます。聖書が行き届いてない国も多くありますから。
 本当に選民か?は、結局、死んでからの結果論になります。

 選民意識については、日本人だからかわかりませんが、日本人クリスチャンは選民意識はあまりない感じがします。愛国心などを教育されてない影響かもしれませんが。

 神様はチヤホヤはしないです。厳しい面もあるから。愛する人にはドンドン試練を与えると書かれてますし。聖書では、信仰の父と言われるアブラハムも試練に合い、義人と言われるヨブの苦難は有名です。むしろ、愛する者にはムチを加える神だと知られていると思います。
 Q、キリスト教徒だと、テロに巻き込まれませんか?
A、テロが多い国・・お国柄というのがあると思います。日本では基本的に大丈夫だと思います。
イスラム色の強いところでは、キリスト教だろうが、何教だろうが、無宗教だろうが、対象になる可能性はあります。
 Q,どれくらい祈ればいいですか?
A、祈りの課題がある場合は、「平安が来るまで」がいいと思います。心に安心や確信が来ると、祈りの答えがすでに来たか、または近いです。
 Q、祈る時は手を組んだほうがいいですか?
A,やりたい人がそうします。祈る時は、手をあげて祈る方もいますし、ひれ伏す人もいたり、なにもしない人もいます。手を組む人もいます。それぞれ自由で、気持ちが込めやすい、集中しやすいほうでどうぞ。
 Q,一人で祈る時は、声に出したほうがいいですか?
A,一人の時は、声に出すか、黙って心で祈るかは、やりやすいほうでどうぞ。気持ちが集中して込めやすいほう、心がいっしょに動くほうがいいですよ。異言の祈りなら、言葉の賜物と言われていて、発音すべきものでしょうから、場所的に声を出しにくけれb、口を動かす小声ならできます。
 A、よく食前に手を組んで祈る人を見かけますが。学校とかで1人だけいきなりやると変な人に見えますが、食前の祈りもすべきですか?
Q、聖書の規定や勧めにそういう記述はありませんので、個人の自由でどうぞ。
 人や国によっては、手にジェスチャーを加えず、心で感謝して食事を頂く・・という事もできるでしょう。祈りは、見せるためのものではない、隠れてしなさい、とイエス様も福音書で教えています。
 食前の祈りをするかしないか個人の自由です。教会によっても、きっちり皆で祈ってから食事を頂く教会もあれば、祈らずに食事を始める教会もあります。

「伝道のため、証しのため、わざと見えるように、お店に行って、手を組んで見えるように祈っています」・・と言う、狙ってポーズするクリスチャンもいます。

 逆に、周囲に嫌な空気を与えて誤解されると思うなら、一瞬、心の中で祈るか、別の時間、朝や帰ってからの祈祷の時間に、まとめて感謝の祈りをしてもいいのではないでしょうか?



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