殉教熱


初代教会、初期教会は、ローマ皇帝による迫害が連続しました。

現代でも、「キリストのために死ねる」と言う人たちもいます。
ただ、現代の日本では、迫害というものが、「どんなものか?」知りませんし、
経験もしたことがないでしょう。
だから、その中で、そう言うのは、考えが浅い、軽い可能性があります。

もし実際の殉教になって、いや、それ以前の拷問の時点で、逃げ出して、棄教する可能性があります。

当時は、殉教したがる人たちがいたので、それを制止するよう、教えが出ていました。

なぜなら、神の選びによって、殉教に耐える力を与えられ、進んで受けて、立派に証しをした人たちは良いのですが、
逆に、勇んで行って、さんざん平気だと言っていたライオンを見て、臆病になり、
仲間たちの目の前で、異教を賛美して棄教し、
他の人たちの信仰をくじいたり、
観衆の前で、逆の証し・・・神の証しにならない証明をしてしまうことがあったからです。


★ 殉教は神の選び

殉教は、神の選びで、軽々しく、「します!」と言ってはいけない、・・と初期教会では、教えられていました。

その迫害時代は、やはり、口だけ「私は殉教します。」と言い、クリスチャン仲間にも強く勧めていたにもかかわらず、
他の殉教している姿を見て怖くなり、棄教したという話があります。

だから、「軽々しく、私は殉教します」と言ってはいけない、と当時は教えられていました。

殉教は、神様の選びであって、皆が全員、あのように気高く耐えられるわけではない。

体の仕組みがわかるほど裂けても、全身火傷や、動物の噛み傷など、
数年にわたる拷問に、声1つもあげずに、
むしろ、輝き、堂々としていられる・・というものではない、と。


ステパノの時もそうだったように、神様の超自然的な力が圧倒的に働き、
彼らは、殉教よりも強い信仰を現しました。

中には、ヤコブを処刑場へ連れていた者が、ヤコブの話に感動してしまい、クリスチャンになり、
一緒にその場で処刑された、という記録もあります。
他にも一般信徒の気高い殉教の姿で、また神の働きで、
夢でその処刑人に現れて、その人がクリスチャンになり、処刑されました。

殉教は、ラクにすぐに死ねるというものかというと、そうでもなかったりします。
その前に、長い、さまざまな拷問に耐える必要があります!
殉教できず、全身を折られて、釈放・・というのもあるでしょう。
記録によると、働けない状態にして、鉱山送りもありました。
だから、本当に殉教できるか?は、わからないものです。
殉教の報いは、さらにまさる賜物として、当時は、それを目指す人たちが多かったようです。

キリスト否認した人たちは、良心の呵責による二重の罰を受けた、と記録されています。
目に見えて、輝いているか、みじめになっているか?の明暗が分かれるそうです。
ここで、本当に信じているのか?どこまで、信じているのか?・・・
信仰の強さの差が出てしまうのでしょうね。


しかし現代は、ちょっとした衝突で、例えば、未信者の家族との言い違いで、「迫害」と言ったりしていますが、
それは、「迫害」というレベルのものではありません。

★ 殉教者と呼ばれることを嫌う

捕らえられ、明らかに殉教するだろう、という人たちは、
自分が「殉教者」と呼ばれるのを嫌った、そう呼ばせなかった、と記録されています。

殉教という称号は、キリスト・イエスのものだから・・という理由です。
彼にならう者、従う者に過ぎない。
ただ、「最後は、立派に、殉教できるように祈ってくれ」と、
泣いて兄弟たちに祈りを要請するだけです。
立派に殉教したら、「殉教者」で、
まだ、生きているうちは、そう呼ぶ資格は、確かに無いですからね。
「殉教者」は、その結果があって、そう呼ばれるものだと・・
なるほど、と思いました。

★ 殉教者の遺体を崇拝しない。

そんな気高い死に方を見て、
殉教者の遺体を崇拝するような傾向もあったりしました。
そのくらい、すさまじいものだったのでしょう。
遺体は、崇拝してはいけませんが、埋葬はしてあげたほうが良いでしょう。

危険をおかしても、遺体を埋葬するという優しさ、配慮は、
当時のクリスチャンたちにありました。




信仰の先輩たちの姿を記録で見て、
とても感動しました。
彼らの気高い信仰、神への真実な愛を示した生き方、
彼らを通し、立派にキリストが証しされています。

ただ、立派な人たちが天に行ってしまうので、
そうすると、教会は弱くなります。
力ある業や、貴重な教えや実践は、このあたりで、
失われてしまったようです。

当時は、本当に世の終わり?かと思われるような状況でした。
使徒たちもそう考えていたことが記録されています。
創造から6000年で世界が終わるという説が当時、あって、
その殉教時代は、5千年のもう後半に入っていると言われていたと、記録されています。
現代もいろいろ起きると、終わりの兆候か?と言われたりしますが、
私は、この殉教時代の悲惨さのほうが、確かに、世の終わりだと思えてしまいます。

軽々しく「殉教」と言えるものではなく、
もっと重いものとして、受け止めるべきだなと、思いました。
真の殉教の称号を持っておられる方は、イエス様ですから・・・。

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