・クリスチャンの服装 その2

〜「地の果てまでに福音を」ブログの女性宣教師のメッセージを、許可を得て、掲載しています。


アテネも日増しに暑くなってきています。
先日、大学前でバスを降り、大勢の学生の後ろに続いて、私も高台にあるキャンパスへと坂を上って行きました。


と、前方を歩いていく学生のみなさんを見ながら、私はこんな思いにとらわれたのです。
〈今、私はほんとに大学に向かっているの?それともここは海水浴場?〉

すぐ前を歩いていた若い女子学生は、短パンに、上は、背中が全開の、前掛けのようなタンクトップを着ていました。

もちろん個人差はありましたが、右を見ても、左を見ても、露出度においては皆、似たり寄ったりでした。
夏の服と、水着との区別がすでにぼやけてきているのです。


〈ああ、どんどん変わっていく、、、〉

3年前より、2年前、そして去年より今年、、とアテネ大の女子大生のファッションが急激に変化していっているのを
改めて私は驚きの目でみました。


私自身の罪の告白

でもどうか誤解しないでください。
私は、こういったことを、裁きの高台から見下ろすようにして言っているのではありません。


もし私が裁きの矢をだれかに射るのだとしたら、それはまず、他でもない自分自身に突き刺さるでしょう。

というのも、私は過去、自分の服装のことで、教会の兄弟をつまずかせてしまったからです。
その事で、ある一人の姉妹が個人的に、私をいさめてくださったことさえありました。


でも私は「自分には罪を犯しているという自覚がない」と答え、かたくなにも自分流のファッションを続けたのです。

海外でも一度、ある姉妹に、同じような事で忠告をうけました。
しかしこの時も私は心を低くして、忠告に耳を傾けることをしませんでした。


そんな私を、主は忍耐し続けてくださいました。
そしてある日ついに、主ご自身が直接、私を叱ってくださったのです。それは次のことばによってでした。


イエスは弟子たちにこう言われた。

つまずきが起こるのは避けられない。だが、つまずきを起こさせる者は、忌まわしいものです。
この小さい者たちのひとりに、つまずきを与えるようであったら、
そんな者は石臼を首にゆわえつけられて、海に投げ込まれたほうがましです

(ルカ17:1,2)。
 


このみことばによって、一人の兄弟をつまずかせることの罪の大きさ、その深刻さが、その時、はじめて分かったのです。

何年も前に、姉妹から戒められた時には、涙一つ流さず、平然としていた私ですが、
その日の夜、私は自分の犯してきた罪を嘆き悲しみました。


その後、タンスを開け、自分の服を一着、一着、主の前に広げ、
「あなたに喜ばれない服、そして兄弟たちを(性的に)挑発するような服を示してください」と祈りました。


そして示された服をことごとくビニール袋に詰め、可燃物用のゴミ箱に捨てに行きました。

神よ。御恵みによって、私に情けをかけ、あなたの豊かなあわれみによって、私のそむきの罪をぬぐい去ってください。
どうか私の咎を、私から全く洗い去り、私の罪から、私をきよめてください。

(詩篇51:1,2)

さまざまな反応

こうして悔い改めに導かれたのですが、その後、こうした私の内面的・外面的変化は、周囲にいろんな反応を引き起こしました。

ほめてくれる人もいれば、非難してくる人もいました。

「成長した」と言ってくれる人もいれば、「律法主義者」だとけなす人もいました。

「若いのに、おばあさんみたいな格好をして!」と笑われたこともあります。
なかには、「あなた、イスラム化したね」と言ってくる人もいました。


人はさまざまなことを言います。でも、神さまは私たちの心をご存じです。

ただ、〈イスラム化〉というコメントには、一言説明をしておく必要があるように思います。

服装におけるイスラムの慎みは、modesty by force (強いられた慎み)と表現できるように思います。
それに対して、私たちクリスチャンのそれは、modesty
by (or out of ) love (愛による・愛を動機とした慎み)といえましょう。

両者は似て非なるものです。根本の動機において異なっているからです。

私たちが強制されてではなく、隣人である兄弟を愛する心から、進んで自発的にみ旨に従ってほしいと主は願っておられるはずです。

あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。

律法の全体は、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」という一語をもって全うされるのです。

ガラテヤ5:13,14

どうか私たち姉妹が、この世の基準と妥協することなく、
あなたへの愛ゆえ、隣人(兄弟)への愛ゆえ、慎み深さをもって身を包むことができますように。


そして願わくば、そういった慎み深さを通し、
この世の人々が、あなたの聖さ、あなたの麗しさを見、あなたに引き寄せられますように。
そして、あなたの御名がほめたたえられますように。


イエスさまの御名によって祈ります。アーメン。




以下、主ノ宮 光の文です。

このテーマは、現代の日本のキリスト教界でも、問題になっている事の1つです。

日本の教会でミニスカートや、背中半分や胸半分の肌が見える空きの大きい服を着ている若い姉妹たちを見かけます。

慎み・・まず、自分自身を知ること。

自分が若くて魅力的なら、なおさら、肌の露出の高い服は着用しないで、守らないと危険です。
それが賢いことです。
まず、自分自身が危険な目に遭う原因理由を自分で作らないことです。
それは、自分が誘惑を仕掛けていることに気づかないといけません。

相手をつまずかせないことについての思いやりは、上記の宣教師さんの文が、
すごくわかりやすいと思います。

変わりやすい一時的な流行を追うか、
or
神と人の前に、誰もつまずかせない、
自分自身にも、相手にも罠にかけないよう、配慮して人生を過ごすか?

どちらを進んで選びますか?

ルカ17:2
これらの小さい者のひとりを罪に誘惑するよりは、
むしろ、ひきうすを首にかけられて海に投げ入れられた方が、ましである。


マルコ
9:42また、わたしを信じるこれらの小さい者のひとりをつまずかせる者は、
大きなひきうすを首にかけられて海に投げ込まれた方が、はるかによい。

9:43もし、あなたの片手が罪を犯させるなら、それを切り捨てなさい。
両手がそろったままで地獄の消えない火の中に落ち込むよりは、かたわになって命に入る方がよい。
〔 9:44地獄では、うじがつきず、火も消えることがない。〕

9:45もし、あなたの片足が罪を犯させるなら、それを切り捨てなさい。
両足がそろったままで地獄に投げ入れられるよりは、片足で命に入る方がよい。
〔 9:46地獄では、うじがつきず、火も消えることがない。〕

9:47もし、あなたの片目が罪を犯させるなら、それを抜き出しなさい。
両眼がそろったままで地獄に投げ入れられるよりは、片目になって神の国に入る方がよい。
9:48地獄では、うじがつきず、火も消えることがない。

9:49人はすべて火で塩づけられねばならない。
9:50塩はよいものである。しかし、もしその塩の味がぬけたら、何によってその味が取りもどされようか。
あなたがた自身の内に塩を持ちなさい。そして、互に和らぎなさい」。 



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