教会(共同体)のマナ

教会は、静と動、両方の信仰が身に付く場であると言えるでしょう。

・教会への参加

マタイ
 25:24一タラントを渡された者も 進み出て言った、
『ご主人様、わたしは あなたが、まかない所から刈り、散らさない所から集める 酷な人であることを 承知していました。
25:25そこで 恐ろしさのあまり、行って、あなたのタラントを 地の中に隠しておきました。
ごらんください。ここに あなたのお金がございます』。

 25:26すると、主人は 彼に答えて言った、
『悪い怠惰な僕よ、あなたは わたしが、まかない所から刈り、散らさない所から集めることを 知っているのか。
25:27それなら、わたしの金を 銀行に預けておくべきであった。
そうしたら、わたしは帰ってきて、利子と一緒に わたしの金を返してもらえたであろうに。
 

このタラントのたとえの銀行って、教会のように思えます。
特に、タラント・・なにか大きい賜物や力が無くても、とりあえず、少なくても、銀行(教会)に預ければ、利子がつく。
何もできないように思えても、教会での簡単な奉仕や、
または、ただ、いるだけで、挨拶するだけでも、教会員に愛を表せるだけでも、
利子になるんじゃないか、と思います。


・教会(集団)のメリット

信仰を高め合える、励まし合える、愛し合える
共に礼拝できる。
良い牧師の説教を聞き、信仰が入る。
助け合える。
祈り合える。
家族や友人などへの伝道の協力。

・・なにかあった時、助けてもらえるのは、教会(信仰の共同体)ならではの恵みです。
一人の信仰は、何かあった時、弱いです。
クリスチャンが、やむを得ない場合を除き、地方教会に、所属すべきなのは、基本ですから・・。


・説教を食す

教会の礼拝は、私は、お祭だと思っています。
御言葉は、マナ、食事だと前回書きましたが、
教会で、他の人(たいてい牧師)が用意(調理)した説教を、頂けます。
これも、恵みで、おいしいと思います。

おいしくない場合は、調理人の問題ですかね。
まず、説教する牧師やリーダーが、「光」があるか、どうか?
「信仰」を持っている人かどうか?
見てください。
クリスチャンは、「光」であるはずですから、
その人のうちに、「光」があるはずです。

「光」を持っていないなら、ちょっと、リーダーは、一旦、休憩したほうが良いでしょう。



・注意点!

これ以外にも、本などから、マナを頂くこともあるでしょう。
しかし、注意してください!

いくら、キリスト教だと言っても、中には、引き落とすものが、あるということを。
命がなければ、逆に、恐れたり、恐怖に捕らわれて、裁くようになるのでは、
何か、違う霊の流れでは ないでしょうか?
平安が無かったり、信仰が入ってこなかったり(信仰が失う)する場合、根本が何か、違っている場合があります。

ありがちなのが、地獄などの恐怖描写の本や、悪霊対処などの本を読んでしまい、
周囲を、裁きまくったり、恐怖にとりつかれる。ああ、これをしないと、アレをしないと・・と。

おくびょうの霊を受けたわけではないと、聖書に書かれています。
偽の天国地獄の体験談もありますから、
他人の体験ではなく、御言葉重視で、イエス様から目を離さないでいてください!



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