日々の御言葉通読
天のマナ・日ごとの糧 〜主の食卓という礼拝 〜

聖書には、「食べる」という事が、よく見ていると、いろいろ書かれています。
出エジプト記では、「天からのマナ」、
イエス様は、「わたしがいのちのパン」、
人はパンだけではなく、神の口から出る、一つ一つの言葉で生きる」とも言われました。

マタイ4:4
 イエスは答えて言われた、
「『人は パンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で 生きるものである』と書いてある」。


私たちは、クリスチャンとなり、神の子供となりました。
そうしたら、まず、なにをしなければならないでしょうか?

礼拝?そうですね。
礼拝は、受ける礼拝と、捧げる礼拝があります。
まず、最初に大切なのが、マリヤとマルタの話の、マリヤのように、
神から「受ける礼拝」です。
礼拝とは、食べることです。
自分を忘れ、神を食べ、一体となり、神に浸していただく・・。
受け身の礼拝ですね。

マルタのように、「あれが足りない、これをしなければ」と思い煩うのではなく、
神は、願う前から、必要を知っておられます。

心配、願い事は、一旦、脇において、
ただ、神の言葉を食べましょう。
神の言葉を自分の中に入れて、浸りましょう。
自分自身を、神の言葉で、いっぱいにする、浸すのです!

神と一体になる・・何によって?
神の御言葉を、食べることによって・・・です。
イエス・キリストを食べます。
私たちは、毎日、イエス様を食べる必要があります。
彼は、天から下ったパンです。
食べることで、一体となるのです。聖餐もそうですね。


人は、神の言葉を、毎日食べなければいけません。
愛も、「お互いに」愛し合うことが必要です。
この箇所だと、与えるほうばかり思ってしまいますが、
受けることも同じくらい、大事なのです。

神の言葉が、私たちの血肉となれば、
信仰も自然と身に付きます。
信仰の体が作られるからです。
「これが信じられない!」ではなく、
イエス様は、ひたすら信仰を称賛されましたが、
その信仰が造られてくるはずです。

でも、それが別のもの・・別の言葉、否定的な悪いものを食べてしまっているならば、
「信じられない!」・・否定的で暗い、そういう体質になってしまいます。

あなたは、神のパンを毎日食べている時間がありますか?
奉仕だけに明け暮れて、自分が受け身になれない、天の糧を受けれない状態・・
「主よ、主よ」という者が天国に入るのではない、すごい奉仕をしても、あんたは誰だ?と
いわれてしまう状態に なっていませんか?
だれの糧を食べて、動いたのか?と。
別の霊力?または自分の肉の力?自分の力ですか?

主の食卓に、日々、行きましょう!
静まって、ただ、御言葉を受け、自分の中に、入れましょう。


私たちは現代は、基本的に1日3食を食べます。
霊の糧・ご飯も、朝起きて、まず、聖書を読んだり、
賛美のCDの言葉を心の中に入れて、消化してみたりして、
御言葉が入るようにしましょう。



基本的に、私は、毎朝、一番先に聖書を見ます。だれかと話す前に、何かを見たり聞いたりする前に、
できれば聖書を読みたいです。
朝の、何も入ってない時間に、その日の一番に、神の言葉を自分に入れます。
そうすると、やっぱり、違います。
できなかった時は、なんだかボーっとしてしまい、その後に聖書を読んでも入ってこなかったり、
入りにくい感じがしたりします。
できた時は1日すっきりしていて、御言葉を、時間を置いてまた読んでも入りやすいです。


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